Optimistic And Adorable

※ハートフル嘔吐ストーリー。ばっちいです注意。

先程剥いたばかりの大根の皮を今度はおもむろに千切りにしはじめたものだから、閻魔はつい口を挟んでしまった。彼は生ゴミ相手に一体何をしているのか。

「…トドメでもさしてるの?」

コンロの上では鍋がコトコトと煮えていて、少し甘い出汁の香りがキッチンに立ち込めている。出汁なんて味の素で十分なのでは、と閻魔なんかは思うのだが、なんでも数時間前から昆布を水に浸すだけで、それはそれは素晴らしい出汁がとれるそうだ。わざわざ手間をかける鬼男が妙に楽しそうなので、普段は何も言わずに見守るだけなのだが今日は好奇心がそそられた。

「いえ、勿体無いからきんぴらにしようと思って。っていうか、トドメってどんな思想してるんだお前…」
「きんぴらに?牛蒡も人参もないのに?大根の皮を?まっさかー、また私を嵌めようっていうんでしょ」
「お前がいつも勝手に嵌っているんだろ。あんたみたいに立派な出自の人は知らないでしょうけど、大抵のものはごま油と鷹の爪で炒めるときんぴらになるんですよ」

りっぱなしゅつじ、頬袋の中で反芻して笑い出しそうになった。彼は些か私に夢を見すぎている、と閻魔は密かに思う。なるほど鬼に比べれば立派な存在に見えるのかもしれないが、十王や他の神々との会議でどれほど自分の出自が蔑まれていることか。閻魔は自然と湧いてでてきた自虐思考を慌てて打ち消して、話に集中しようとした。それもできる限り人好きのいい笑顔を浮かべて、なるべく陽気そうに振る舞うよう心掛けた。恋人を不安にさせるのはあまり好ましくない。

「へえ、全然知らなかった。大根の皮も食べられるんだねえ」
「大根なんて葉の部分も炊き込みご飯にすればあますことなく食べられますからね。そういえばあんたは辛いのあんまり得意じゃないんでしたっけ」
「ううん、そうでもないよ。カレーだと子供用を所望したいくらいかな」
「…全然駄目じゃないですか。じゃあ、とりあえず鷹の爪は二つだけにしましょう」

閻魔ははあいと甘ったるく返事をして、鬼男の横顔を見つめる。火を扱っている彼はフライパンの上の出来事にすっかりお熱で、ちっとも閻魔に構ってくれない。それでも閻魔は飽きずに鬼男の横顔を見つめてみる。長い睫毛に均整のとれた鼻梁。少し俯くたびに月色の髪がさらさらと揺れる。彼が構ってくれるまで何千年だって飽きずに待てる気がした。恋の病はいつだって千年だの永遠だのと大袈裟な妄想を駆り立てるものだ。その大袈裟な年月の恐ろしさを実体験として知っている閻魔ですらこの有様なのだから、そのへんのインフルエンザよりもよほど恐ろしい。

「そんなに近くにいると油が跳ねますよ」

毎日煮え銅を飲まされている自分に今更火傷の心配なんて、とひねくれた反発が浮かんでくる。しかし、瞬きを三回繰り返す間に、大人げある折り合いをつけた。鬼男くんなのだからしょうがない。

「そうだねえ、ちゅーしてくれたらどいてあげようかな」
「…馬鹿じゃねえの」

鬼男は眉を思い切り寄せる。閻魔はその怖い顔は照れているだけだと知っていたので、瞼を閉じて恋人を待った。そのうち震えた柔らかい唇が押し付けられる。付き合ってからそこそこの歳月が経つというのに、いつまでたっても慣れない初心さは閻魔の心をくすぐった。

「子供じゃないんですから、火の傍でふざけちゃだめですよ」

見え見えの照れ隠しに耐えかねて閻魔は笑ってしまった。鬼男もまた照れ臭そうに笑った。

「いただきます」

その日の夜は素晴らしい食事だった。蛍烏賊と大根の煮物に件の大根の皮のきんぴらと生姜焼きに真っ白なご飯と味噌汁。閻魔は鬼男と食事をとるたびに、絵に描いたような幸せな光景に目が眩む。おそるおそる熱い味噌汁を口に含むと、麹のなんともいえない香りがした。愛おしげに自分を見つめる鬼男にぎこちなく微笑みを返す。いつだって、肯定的な言葉というのはどうにも照れ臭いものだ。

「おいしいよ」

鬼男は当然ですと腕を組んだ。その顔にはたしかに誇らしさが浮かんでいて、閻魔はおいしいよ以外にも言えたらもっと喜ばせてあげられるんだけどなあ、と途方に暮れた。

「それにしても、僕がこんなに天才的に料理がうまいっていうのに、あんたは全然食べませんねえ。ごはんのおかわりもあるのに」
「元々食が細いし、むしろ私が食べてるだけでもすごいことだよ。おいしくなかったら食べもしないもの」
「そんなんだから鶏ガラみたいな体してるんですよ」
「う、うるさいなー!筋肉がなんぼのもんじゃい!この筋肉鬼男!筋男!」

夕食の後は歯磨きをして、お互いを舐めたり噛んだりする行為を軽く楽しんでから寝た。鬼男が寝たのを見計らって閻魔はベッドを抜け出す。ギシ、とベッドのスプリングが大きく軋んだのでヒヤヒヤした。念の為、掌を彼の瞼の上にかざして、眠りをより深いものへと誘う。掌の気配を察したのか、彼の髪の色と同じ色の艶やかな睫毛が僅かに震えた。

「おやすみなさい」

鬼とは思えない美しい姿をした青年のことを閻魔は心底愛おしいと思う。

「…っとと、もう限界だ」

閻魔はそう独りごちると、手を腹のあたりに添えながらよろよろと歩き出す。震える体に鞭を打って廊下の外までなんとか抜け出すと、欲望に耐えかねてうずくまった。口をきつく閉じようとするが間に合わない。うぐえ、という醜い音が口から漏れた。吐瀉物がビチャビチャと音をたてて廊下の大理石を汚す。

「あらら、間に合わなかったかあ…」

絵に描いたような幸せは所詮絵でしかなく、閻魔の身体はたしかに死んでいて、本当のところ、心臓すらもろくに動いてはいない。つまるところ、食事なんてできないのだ。咀嚼したものは胃袋に詰まるだけ詰まって、どこにも行くことがない。鬼男はそれを知らない。知られたくない、と閻魔が願う限り彼がこの事実を知ることはないだろう。秘密は閻魔の得意分野だし、鬼男は人の裏を覗き見るのが苦手だ。

「うっ…げぇ…」

消化できない異物を体は容赦無く排出しようとする。受け入れることはしないくせに、吐き出す行為は得意なあたり自分の肉体らしいと閻魔は自嘲気味に笑う。

「はぁっ…はっ…」

先程の幸せな香りなんてどこへ消えたのか。今となっては饐えた臭いだけが残る。吐瀉物のなかから先程褒めたばかりの味噌汁の具のようなものを発見して、閻魔はまた会ったねとつまらない冗談を零した。食後はいつだって最悪な気分だが、消化されない魚の骨がたまに胃袋を破ることもあるので、それを思うと今日の夕飯はまだマシな方だ。胃液が他の臓器を溶かしていく感覚はそう好ましいものじゃない。閻魔は震える手を冷たい大理石の上に置いた。

「ぁっ…」

えずくのがやまない。胃が痙攣するたび情けない声が漏れる。それでも、と閻魔は涙で霞んだ視界で考える。

それでも。

「今日のオヤツはロールケーキですよ」
「やったあ!ロールケーキ!私すきなんだよねえ」

卵色のいかにも柔らかそうな生地に真っ白なクリームが包まれているのを見て、閻魔は喉元まで胃液がせり上がってくるのを感じた。昨日のキスを待つ時のように瞼を閉じて、覚悟を決める。まるで祈りのように。

「…あんた存外柔らかい食べ物すきですよね。年寄りみてえ」
「あー、ひどいなあ。いいじゃん。ふわふわしたのが好きなんだよ」

数時間後には吐瀉物になっているだろうかたまりに向かって閻魔はフォークを突き立てた。お飾りの苺が潰れる様はどうしようもなく滑稽で、なぜだか自分を思い起こさせる。

「うん、おいしいよ」

今日も恋人に向かって閻魔はそう微笑み返す。おいしいよ以外にも言える言葉があったらいいのになあ、と今日も閻魔は途方に暮れる。味というものを判別できたのは一体何万年前のことだったかしら、閻魔は瞼を閉じながら遥か昔に思いを馳せた。

O_A_A

(150512)未来のない味蕾。

新訳・青白橡 第二話

鬼男は人目につかないよう黒い布を纏いながら、廊下を走っていた。目覚まし時計のアラームで護衛の注意を惹いている間に渡り廊下を渡る作戦は拍子抜けするくらい上手くいった。帰りは死ぬほど怒られるだろうが、塔の中に入れただけで上々だ。

「えんまさまの部屋はたしか一番上だったよな」

image

螺旋階段を登ろうとした時、鬼男は理屈では説明できない違和感を感じた。

(何かに見られているような…?)

鬼男が後ずさりをした時、頭に何か液体が落ちてきた。頬についた何かを拭う。水よりも粘着質なそれの正体を鬼男は臭いですぐに理解した。

「血…?」

呟きとともに恐怖が押し寄せてきた。全身の産毛が一瞬で逆立ったのがわかる。震える足をなんとか動かした所で、ビチャッ、ズルッという大きな生き物が這うような音が階上から聞こえた。鬼男は反射的に動きを止める。すると、上の何かも動きを止めた。心臓が痛くなるほどの沈黙が螺旋階段を包む。静かになればなるほど心臓の鼓動が段々と激しくなっていった。

ここは冥府だ。まれにだが地獄の生き物が迷い込むこともあるという。鬼男は息を整えて、冷静に授業で習った地獄の生き物達を思い出していく。

餓鬼、閻婆は中でも見慣れている生物だがまるで違う。次に、針口虫、食肉虫、丸虫、那迦虫とおぞましい虫たちの姿が思い出されるが、どの虫もあれほど大きくはない。先程の様子だと生き物は人一人分くらいの大きさは優にある。地獄の中でも非常に希少な生物だが、龍だろうか。ようやく鬼男が落ち着いてきた頃、渡り廊下の方から「糞餓鬼どこだ!」という怒鳴り声が響いた。先程鬼男が目覚ましのアラームで罠にかけた見張り番だ。目覚ましを振りかざしながら、こちらへ走ってくる。

「…!」

来ては駄目だと忠告しようとした時、上にいた何かが激しくズルズルッと移動し始めた。音が大きくなっていくことから察するに鬼男がいる下に向かって下りてきている。鬼男はやっとの思いでこわばった体を螺旋階段の下のスペースへ体を滑り込ませた。

「くそっ、あの餓鬼まさか閻魔様の所にまで行ったんじゃないだろうなここが医者とだって言い触らされたらたまったもんじゃないぜ」

(医者と?)

鬼男が疑問に思ったのとほぼ同時に怖れていたことが起こった。あの生き物が見張り番の男に襲いかかったのだ。階段のやや上から真っ黒物が飛び降り、見張り番を圧し潰した。龍とは似ても似つかない醜悪な外見だった。強いて言えば巨大なヒルに似ている。男が叫び声を上げようと大きく息を吸う。しかし、すぐに口を塞がれ、くぐもった苦しそうな声とジュルジュルという何かの音だけが空間に響き渡った。目の前の恐ろしい光景に叫び声を上げそうになって慌てて口を手で塞ぐ。たった一枚被っていただけの黒布だが、それがなければ恐怖のあまり飛び出していたかもしれない。かろうじて鬼男はその場から動かないでいるだけの理性をまだ保っていた。

image

やがて、ヒルのような生き物はゆっくりと男から離れた。血の臭いが辺りに充満している。暗くて男がどうなったのかはわからない。だがたとえ周りが明るかったとして、男の結末を見る勇気はなかった。ぎゅっと瞼を閉じて、嗚咽が溢れそうになるのを我慢するのが精々だ。あのヒルのような得体の知れない生き物がずるずると体をひきずっている音が聞こえる。段々とこちらの方に近づいてくる。獲物を、鬼男を探しているのだろう。ズルッ…ズル…。音はもう間近だ。生き物は階段上に戻るのでは、という期待も打ち砕かれた。鬼男の隠れている場所まであと一歩、というところで渡り廊下の方からアラーム音が響いた。

(目覚まし時計のスヌーズ機能だ!)

見張り番が襲われた時に、目覚まし時計が投げ捨てられたことを鬼男は思い出した。奇跡のようなタイミングに泣きそうになりながら鬼男は化け物がここからいなくなることをひたすら祈った。化け物はしばらく悩むようにその場に立ち尽くしていたが、やがて音のする廊下の方へと移動していった。おそらくこの化け物は動きよりも音に敏感に反応するのだろう。この逃げ場のない場所から去るとしたら今しかない。鬼男は音を立てぬように階段を登り始めた。

✳︎

いつ追いつかれるかわからないが、急いで音を出すことはできない。自分でもじれったくなるほどゆっくりと階段を登っていく。鬼男は一段登るごとに背中からあの生き物に襲われるのではないかという想像に抗わなけらばならなかった。音が出ないよう注意しながら何回か螺旋階段の中央部分から下を覗いたが、生き物はついてきてはいないようだった。

「そういえばあいつ上から来ていたけど、えんまさまは無事なのだろうか」

落ち着くにつれて今度は閻魔様の安否が不安になっていった。もし、閻魔様に何かがあったら、そう考えるとどうしても少し駆け登る形となってしまう。だが、もうあの化け物は追ってきていないようだし、このくらいは大丈夫だろう。最上階に着く直前、鬼男はもう一度手摺の下を覗き込んだ。

ヒタ、とこの世の物と思えぬほど冷たい何かが鬼男の首筋にあたった。化け物が下から追いかけてこないのも当たり前だ。化け物はもう、とっくに上に着いていたのだ。

新訳・青白橡第一話

鬼男は恐怖のあまり体を動かすことができなかった。目の前に何か巨大な生き物がいる。ずるずると体をひきずっている音が聞こえる。音は段々とこちらの方に近づいてきていた。獲物を、鬼男を探しているのだ。

aoshiro

「えんまさまは鬼の子供を食べることで永遠のいのちを手に入れたんだって」
「そのかわり、鬼がえんまさまをたべると、永遠のいのちが手にはいるんだって」
「えんまさまは最近ご気分が優れない。だから鬼をたくさん食べてお体を治しているらしい」

「だから最近鬼の子供がよく消えるんだって」

先日の大寒の日に生まれ落ちた小鬼は興奮に頬を染めながらそんな愚にもつかない噂話を交わす。鬼男はその醜態に一瞥だけくれて勉強に戻った。くだらない。大体その噂が真実だとしたら、閻魔様は食べられた前例があるということになる。だが、あの方は生きて今でも執務をこなしている。大方、と鬼男はあたりをつける。生まれ落ちてからまだ一年経っていないが、この世界の成り立ちはあらまし理解していた。人間と手を組み、反逆を企てる輩がいると聞く。そのグループが流した噂だろう。

「鬼男も気になるだろ」

比較的よく話をする少年、鬼助が鬼男にそう尋ねてきた。相手が何を期待して話しかけてきたのかは理解していたが、期待に応える気はなかった。鬼男は黙って首を振る。なんで、と聞きたそうに顰められた眉を見て、鬼男は不本意ながらも理由を説明する。

「そんなの確かめようがないだろ。第一本当に食べられたなら今どうしてえんまさまがいらっしゃる。子鬼が消えるのも大方はんぎゃくグループの仕業だろう。この噂自体えんまさまへの不信感を煽るための噂じゃないか」と答える。

それに、と鬼男は心の中で付け加える。万が一、噂が本当だとしても閻魔の命と引き換えに得るような永遠の命なら、そんなものはいらなかった。 死んだ方がいくらかましだ。鬼助は感心したように口笛を吹く。

「さすがだな。でも真面目な鬼男君は知らないだろうけど違う意味のたべるもあるんだぜ。それだったらえんまさまが五体満足でお仕事されているのも納得できる」

「ちがう意味?」

「夜につかうたべるさ」

どういうことだと尋ねようとするが、教官が小鬼達のお喋りを叱り飛ばしたせいで話は中途派に切り上げられることになった。とはいえ、少年は意地の悪いにやにや笑いを浮かべていたので会話が続いていたとしても素直に教えてはくれなかっただろう。

「…ちがう意味」

鬼男は秘書候補の小鬼の中でも群を抜いて成績が良い。その分だけの努力をしていたから、_陰ではどうだか知らないが_少なくとも面とむかってやっかみを買ったことはなかった。しかし、鬼男はけして何かに対して知りたい、という純粋な好奇心から勉強に打ち込んできたわけではない。 鬼男は知らないということが恐ろしかったから、学ぶことに必死にしがみついたのだけだ。得体の知れない無知への恐怖の源を知ろうと寝ずに思索にふけった晩もあったが、答えは結局いまだに見つからじまいだ。今もまだ、ただただこわい。 知らないことは、こわい。その恐ろしさが、鬼男を突き動かしていた。

「教官、たべるとはどんな意味ですか」

授業終わり、鬼男はいつものように教壇へと向かった。

「食べる?そんなのお前いつも夕飯でやってるだろ」
「いえ、違う意味らしいのです。人に対して使い、どうもその意味の食べるだったら食べられた人も五体満足でいるらしいです」

「………」

教官は何か難しい顔をして、固まっている。大抵のことを知っている教官がこんなに反応に詰まることは今までなかったことだ。

「夜に使う、と鬼助は言っていました」

「そうか………先生は、残念ながら知らないな…閻魔様ならばしっているかもしれないな。いつか大人になって、閻魔様付きの官僚になれた時に聞いてみるといい」

教官が絞り出すようにそう答える。鬼男はその答えに項垂れてしまった。閻魔様は冥府の最高権力者だ。おいそれと会ってもらえるわけがない。鬼男はまだ閻魔の姿さえ知らないのだ。

「ありがとうございます…」

おざなりなお礼を残して、鬼男は教室から外に出た。鬼男は自分が優秀だと自覚していた。大人になれば、必ず閻魔の側近になることができるだろう。しかし、いくら自身が優秀だったとしても、閻魔の側近を許されるまであと五年は必要だ。個体差はあるが、鬼が成体になるまで六年かかるとされている。鬼男は諦めきれずに、窓から閻魔がいるとされている塔が見た。塔への入り口は渡り廊下の一本だけ。渡り廊下には護衛が一人立っている。その護衛さえなんとかできれば……。

「鬼男!早く部屋に帰れ!日が暮れるぞ!」

教室内の教官から叱られる。慌てて歩みを早めた。だが、日が暮れるというのはいつ聞いても変な話だ。冥府の気候は曇りと黄昏と夜しかなく、日なんて出たためしがない。

宿舎へ戻る最中に閻魔塔を通る道を行く。少々遠回りだが、ちょっとくらいならいいだろう。おざなりに門番へ声をかける。

「こんばんは」
「……」
男は鬼男に一瞥だけくれて、貝のように口を閉ざす。子どもを憎むかのように頑に無言を貫く門番は子ども達からも嫌われている。今日も男は口を閉ざしたままだ。鬼男は走り抜ける瞬間、冷静に間取りを把握していた。

「さようなら」

男は答えない。わかりきったことだ。
✳︎

風呂の時間も終わり、鬼男は火照った体をベッドに沈めた。そもそも、と鬼男は考える。えんま様は本当にいるのだろうか。自分たち研修生はまだ生まれたばかりの頃簾越しに簡単な挨拶をしてもらっただけである。いや、と鬼男は首を振る。こんな不敬な考え捨てなければいけない。しかし、不器用だと笑われようとも、鬼男は自分で見たものしか信用できないのだ。眠気は全く襲ってこない。鬼男は漠然とした計画を具体的な線に起こしながら、枕元の目覚まし時計を見据えた。

白亜紀宛のハガキ(B面)

ハガキに添えられた地図を頼りに畦道を歩く。人目なんか気にしないで、もっと近くに降り立てばよかった。麦わら帽子をかぶっているというのに暑くてたまらない。うっかりしていたが現世は真夏だ。太陽と運動にめっぽう弱い自分が、炎天下に遮蔽物がない道を延々と歩く。それも元彼の結婚式を一目見るためだけになんて、もはや軽い拷問に近い。馬鹿らしさを覚えて引き返そうかとも思うが、中途半端に長い道を歩きすぎて、もはや引き返すこともできない。一歩一歩を無心で歩く。疲れのあまり思考は混濁し、大昔に知人としたくだらない会話を引き出してきた。

「神様はいいなあ。私もなりたいなあ」

酔った松尾芭蕉が日本酒を煽りながら、そう笑った。

「私の身にはできないこともできるもの」

彼の無垢さと神好みの愚かさは何度生まれ変わっても変わることはないのだな、と呆れたことを微かに覚えている。彼は彼でけして再び出会えるはずのない愛弟子探しに躍起になっていた頃だったから、そういった背景もあっての発言だったのだろう。(彼の愛弟子は俳聖への妄執を咎められ未だに地獄の最下層暮らしだが、彼はそれを知らない)。たしかに私は人にできないことを千ほどできる。姿形も変えられるし、世の理も多少であればねじ曲げられるし、知ろうと思えば全てを知ることができる。地獄のことであれば、ほぼ何もかも思い通りだ。それでも、と過去に自分が松尾芭蕉に向けて言ったことを再び、なぞる。

「…私が本当にしたいことは何一つできないよ」

夏の日差しが肌を刺し殺す。今晩のお風呂はきっとヒリヒリして入れないだろう。

地図に書かれていた目印の赤いポストを通り過ぎた。オウゴンマサキの生垣が私の視線を遮るが、中ではいかにも結婚式らしい歓声が響いてる。どうやら、ここが私の目的地らしい。しかし、勢い余って訪れてみたはいいがどうしたものか。正面から入って、改めてフられ直すのも馬鹿らしい。どうしたものか、せめて生垣の内側が見れないかとやや硬めの葉を掻き分けている時、後ろから声を掛けられた。

「今日は東京からきた人たちの結婚式らしいですよ、お嬢さん」

すっかり失念していたが、私は変身コンパクトでセーラー服を着た女子高生に変身している。理由は特にない。強いて言うなら変装だ。

「ああ、そうなんですね。いやーいいなあ、私ウェディングドレスとかチョー憧れるんですよう。一目見たいなあ」
「中に入りますか?祝ってくれる人が多い方が彼女たちも喜ぶと思うので」

どうやら新婦側の人間らしい。好都合だ。

「わ〜、いいんですかあ〜♡」

お礼を言うため後ろを振り返る。そこにはこの場にはいてはいけないはずの新郎がいた。

「…やっぱり、アンタでしたか。ハレの日に女装して来るなよ、変態大王イカ」

辛辣な言いようだが、その表情はどこかほっとしたかのように見える。まさか彼はずっと待っていてくれたのだろうか、私のことを。

「女装じゃなくて変身だし……ってか鬼男くん結婚式は?」
「中でやってるのは僕の友人のレズビアンカップルの結婚式なんですよ。だから、僕は新郎としては出席してません。ただ、戸籍の上では結婚は本当ですけど。あんたも流石に騙されてくれたようですね」

閻魔大王たる自分はたとえ文字の上のことであっても嘘を見逃すことはけしてない。だからこそ今回のハガキ事件ではこんなにも狼狽えたのだ。彼はついに本気で私を忘れるつもりになったのだた。

「随分まどろっこしいことしやがるね」
「お互い様ですよ。ここまでしないとアンタ会いにも来てくれないんですから。ここまでさせたアンタが悪い」
「………せめて普通に言ってくれればさ」
「普通にまだ記憶も想いも残っていることを打ち明けても、『君にはもっと幸せな人生があるから、私なんかにはもったいない』とかなんとか言いながら僕の記憶消しちゃうでしょ。大王」
「煮干し…」
「それを言うなら図星だろ。……アンタのことならなんでもわかるんだよ」

鬼男くんが勝ち誇ったように顔をくしゃくしゃにさせて笑う。私が彼の笑顔に弱いということももちろん知っているんだろう。「あーあ」太陽の光にすっかり参って、彼の小さな影の中にしゃがみこむ。彼の小さな影で何かが変わるはずもないが、それでよかった。久方ぶりの彼の隣は随分心地いい。

「こんなに綺麗に騙されたのは何世紀ぶりかなあ。ほんっと鬼男くんには驚かされるよ」
「暑い中、わざわざ来てくれてありがとうございます」
「本当だよ…何でこんな南国の島にさあ」
「南国リゾートで結婚式は女性の憧れらしいですよ。あんたも折角女の格好で来たんだからウェディングドレスでも着ていきません?レンタルありますよ」

おぞましい提案に絶句する。そういえば昔から、真面目に見えて、突拍子もないことを言い出すコだった。

「…………冗談やめてよ」
「冗談のつもりはないんですがね」
「まあ、とにかく行きましょう。ここじゃあんたが溶けちゃいますよ」

と手を差し出されて目眩がした。これから自分を待ち受ける喧騒が容易に想像できて、苦い笑いが口元に浮かぶ。結婚式会場にプールがないといいのだけれど。

妄想の中で何度も再会をシミュレーションしたはずなのに、脳はうまく働いてくれない。この場に何が相応しいのか皆目見当もつかない。

「鬼男くん」

私の呼び掛けに対して鬼男くんは辛抱強く待った。生垣の中でシャンパンが開いた音がしてからしばらくして、ようやく彼の掌に普段よりも小さい自分の手を乗せる。

「…君に言いたかったことがたくさんありすぎて、何から言えばいいかわからないよ」
「奇遇ですね。僕も大王に話したいことがたくさんあるんですよ。女の時のあんたのドレスは6号でいいのかとか、あなた宛ての葉書きを出すのに切手はいくら分いるのかとか、…まだ秘書の枠は空いているのかとか」

二人で肩を揺らして笑った。熱い空気が肌を焼いて、汗が皮膚に滲む。葉が黄金色にギラギラと輝いて、その生命力の強さにとって食われそうだ。

「…そんな複雑なことは私の秘書に聞いてくれよ」

それだけ言えば十分だった。およそ太古の昔からこうなることは決まっていたことなんだろう。そう考えるとこの甘ったるいソープオペラの展開に対しても諦めもついた。

hakuakiagaa白亜紀宛て葉書き

(150302)

白亜紀宛て葉書き(A面)

足立区の死神くんからハガキをもらった。正確には彼からもらったわけではない。彼はハガキを届けてくれただけだ。

「一時期ちゃんこ屋をやっていたと思ったら今度は郵便屋さん?」

そう皮肉ると居心地が悪そうに死神は笑った。笑うとはいっても骨だからカラカラと音がするだけだったが。

「閻魔様も一時期丸くなってたのに、あの秘書さんがいなくなってからまた意地悪になりましたね」
「独り身の楽しみは他人にする意地悪くらいでね。ま、ハガキありがとう。しかし、よくこんなこと引き受けたね」
「いえね、私も死神は長いですが、こんなこと初めてのことなんでどうしたらいいかわからなかったというのが本音です。もちろん、断ろうかとも思ったのですが……まあ、見ればわかりますよ。じゃ、私はこれで」

ずいぶん意味深だ。扉へと足早に消えていく死神の真っ黒な背を見送った後、ようやくハガキを見る気になった。とはいえ、私に手紙を送る相手はそう多くはない。まして今は人間に転生しているとなると、聖徳太子か松尾芭蕉くらいしか思い当たる節はない。聖徳太子はLINNEとかいうコミュニケーションアプリで繋がっている仲だし、新しい物好きだからわざわざアナログな手段に立ち戻るとも思えない。大方、松尾芭蕉あたりだろうとあたりをつける。今頃はまだ幼稚園児として暮らしているはずだが、おっぱい離れができないとか大方そんな悩み相談だろう。
気だるげにハガキに視線を落とすと、そこには”地獄の入り口あたり閻魔庁 閻魔様”とだけ書いてあった。綺麗な字に似合わぬ大雑把な住所だ。まあ、実際閻魔庁なんて呼び名も場所もコロコロ変わる場であるから、もとより正確な住所などない。これは最も正しい住所だといえる。差出人こそ書いていなかったが、その字に見覚えがある気がして一瞬息がとまった。そんなまさか、と思いながら震える手でハガキをひっくり返す。

「……鬼男、くん」

死神のいう”あの秘書さん”の写真があった。角こそないが、肌はよく焼けていて冥界にいたころの面影がある。歳は18くらいだろうか。少しはにかんだ様子で幸せそうに微笑んでいる。そこまではいい。彼の世界一チャーミングな笑顔までは問題ない。
先程は期待をしないようにあえて思い浮かべなかったが、実は死神くんにハガキが届いてると言われた時から鬼男くんの可能性には思い当たっていた。ぬか喜びをしたくなくて、きっと違う人からのくだらない手紙に違いないと思おうとしていただけの話だ。そういう意味では、鬼男くんの写真付きハガキには何も問題は無い。想定内の出来事だ。 想定外の驚きはその写真の下方にある文字のせいだった。今時らしい筆記体で書かれた英語の下に、吐き気さえもよおさせる文字が書かれていた。

私たち結婚しました。

四時間前に熱を失って以来、もう二度と飲むまいと決めていたお茶を一気に飲み干す。下に溜まっていた茶葉はいい気付け薬代わりだ。タンニンが滲み出ていて過去最高の不味さだった。それはさておき、鬼男くんの隣の黒髪の女の子は誰だ。いかにも良家の子女といった雰囲気で、 息子がいたら息子の嫁に欲しい感じの素敵なお嬢さんだ。

「ていうか、フォーエバーは…?」

ここで彼が秘書として働いていたとき、つまり私の恋人だったとき、彼は高らかに永遠の愛を語っていた。私のことを永遠に諦めないと彼は常々宣言していた。永遠はどこへいったというのだ。ダイオウイカの餌にでもくれてやったとでもいうのだろうか。いや、落ち着け。恋・愛・ラブ・エロス・フィリア、古今東西全ての愛はシャボン玉よりも儚いと誰よりも知っているのは閻魔大王である自分ではないか。陳腐な人生という名のソープオペラをもう白亜紀の頃から何万回、何億回と見てきたのだから。

『ぼくは絶対に大王のことを諦めません』
『そんなことはありえないんだよ、鬼男くん。転生したらここでの記憶はほとんど消えるからね』
『ぼくは絶対に覚えています。そして、またあなたの元に身を置きます』

大人ぶって窘めていたころの自分が懐かしい。否、実際諦めていたことは真実だ。ただ、それでも、もし万が一、ここにいた時の記憶を鬼男くんが留めたままでいてくれたのなら、彼はきっとまた自分を求めてくれると信じていた。そうなったら私は彼に優しく恋の幕引きをくれてやろうと心を決めていたのだ。それが一体どうしたことだ。覚えている上で、違う女と結婚して、あまつさえ私に結婚の報告の葉書をよこすとは、なんて礼儀正しいんだろう!
「最近の若い子って一体何を考えてるのかね」

そんなことを呟きながら、200年前に鬼男くんとの職場でうっかり盛りあってしまったときに使って以来、埃を被らせていた『臨時休廷』という看板を扉に掲げる。そうして私は簡単な身支度だけ整えると、気が付けば、トランク一つを引っ提げて人間界へと降りていた。
(150225)

涙と海水の違いなんてものは

目隠しをされたまま、おそるおそる前へ進む。床を蹴る足の感触と大王のひんやりとした手だけが頼りだ。いいところへ連れて行ってあげよう、大王は仕事終わりに僕の耳にそう囁いた。
それがどうしてこんなことになっているのか、これではまるで死刑台に向かう囚人のようだ。「ごめんね、ちょっと反則っぽいことをしてそこに行くからさァ。鬼男君に見られると怒られちゃうんだよ」「怒られる様な所ならば連れて行かなければいいじゃないですか」
「だって大好きな鬼男君に見せたいんだもん」急に耳元で囁かれて変な声が出る。調子にのった大王が耳たぶを甘噛みしてきたため、適当にあてをつけて爪を伸ばす。
感触と音で判断するに、うまいこと頬に当たったようだった。束の間咽せ入る程に血の匂いがしたが、いつも通りに数秒で消え失せる。 相変わらずの神様具合といったところだ。「いったぁい、上司に何するのさ」「うっせえこの大王イカ」言い慣れた暴言を口にすると、途端、大王の声は黄色いものを含んだ。「そう、それそれ!」「は?なんですかマゾに目覚めたんですか」
「違うったら、ほらそれよりもうすぐだよ!」ぐい、と手を引かれる。大王が少し浮かれているのが見えずとも伺えた。目隠し越しにも周りが暗くなったことが分かる。嗅いだことのない匂いだ。ここはどこなのだろうか。「さぁさ、お立ち会い、御用と急ぎでなかったら、ゆっくりと鑑賞といこうじゃないか」

と指を鳴らす音がして、目隠しがひとりでに外れる。 だが、目隠しが外されたのにもかかわらず世界は相変わらずまっくらだ。手をつないでなければ、大王がどこかにいるのかさえわからなかっただろう。無間地獄にでも堕ちてしまったのだろうか。大王が意地悪な笑い方をしてから、「ああ、これじゃあ何も見えないね、ごめん」と謝った。

再び指を鳴らす音が響く。目をちくっと痛めたものの正体が光だとわかるのには少し時間がかかった。小さな灯りがともる。暗い世界で僕と大王だけがぼうっと青く照らされる。

「…わ、」

「どうかな、所謂深海というものにきてみたんだけど」

色とりどりに光る見たこともない生物達がそこにいた。イルミネーションのように、それぞれの生き物が各々の規律を守って、ちかちかと点滅を繰り返す。 僕と大王は二人で、クラゲが体をふくらます姿をしばらく眺めていた。 小さな塵の様な生き物が辺り一面に漂っている光景は、星空のようでもあった。

「ね、綺麗でしょう」
「ええすごく。それで、ダイオウイカは見られないんですか?」
「鬼男君見たいの?」
「そら見たいですよ。あんたと同じ名前だし」

「…私のことダイオウイカって呼んでるの、君だけだけどね。そんじゃあ上を向いてご覧。呼んでおいたんだ」

見上げたらすぐ間近に巨大な目があったものだから、情けなくも腰を抜かしそうになった。目だけで僕の頭くらいありそうだった。

「うわあああ!でかいでかいでかすぎます!!こわっ!」

「ふっふふ、それがダイオウイカ君だ」
「…大王」
「ん?なんだい」
「あんたをこんな立派な生物の名前で呼ぶなんてダイオウイカに失礼でした」
「ほんっと酷いなあ」

それから僕らはたわいのない会話をしながら、深海の中をしばらく歩いた。昔、古い映画館で見た銀河鉄道の夜のワンシーンをなんとなしに思い出す。

「深海ってなんだか宇宙みたいでなんですね」
「そうだね。ああ、そうだ。星が綺麗に見える穴場もいつか鬼男君に教えてあげなきゃね」
「やけにデートに積極的ですね。一体どうしたんですか」
「いや今日テレビでダイオウイカ特集があったからさ。なんとなく」

それが嘘だということは僕でもわかった。いや、深海にこようと思ったきっかけはたしかにそうなのかもしれないが、根本となる原因は多分違うところにあるのだろう。嘘を見抜くプロフェッショナルの嘘はとつもなく下手だった。皮肉なことだと僕は内心そう思う。

「…その内この寂しくて綺麗な世界にも人間が押し寄せるんでしょうか」

大王が僕をここに連れて来た理由は、きっと、日に日に薄くなっていく僕の体になにか関係があるのだろう。畏れることを怖れだした人間は闇雲に世界の秘密を暴いていく。不思議は不思議でなくなっていき、僕らの世界は日々狭まっている。大王が僕の手を少し強く握った。

「人って、そうせずにはいられない生き物だからね。仕方ないんだよ」

多分それは何でも出来る筈の神様の、出来損なった別れの言葉だった。

(20130115)

Photograph by ray, .

今は昔、鬼男という司禄がかの閻魔王のもとで働いていました。鬼男は口や態度は人一倍悪いものの、人一倍仕事がよくできる鬼でありました。また、閻魔王に対して唯一、へえこらせず、平等に接していた珍しい鬼でもありました。険しい顔で有名な閻魔王も彼に対してだけは心の内を晒して、思い切りふざけあったり、仕事したくないなあなんていうありふれた愚痴をこぼしたりもしていました。 しかし、そんな彼も所詮一介の鬼、いつしか輪廻へと戻ってしまいました。彼がいなくなって以来、閻魔王はあれほど愛した鬼男の名前も、たわいのない冗談も最早口にすることはなくなってしまいました。 そのため、いつからか閻魔王の唇はすっかり乾ききってしまって、ついには上唇と下唇がきつくくっついてしまいました。 困ったなあ。口に出せなくなった閻魔王は書類のはしにそう落書きをしました。実のところ、そんなには困ってなかったのですけれども。 そうはいっても仕事に差し支えあるだろうとあなたは問うかもしれませんね。しかし、閻魔王の仕事といえば専ら死人の裁きでありますので、指を左右にさえ振ることさえできればまず問題はないわけです。残る仕事も話す必要のないデスクワークでありましたし、どうしても複雑な指示を与えたい場合は筆談すればいいだけの話でした。そんなこんなで、閻魔王はとりたてて支障を感じないまま、幾百もの年を重ねました。 ある時、一人の人間がいつものように、裁きを受けにきました。健康的に日に焼けた青年は待ち望んでいたものを手に入れたような笑顔を閻魔王に向けました。天国にいける自信でもあるのでしょうか。閻魔王はそれをお愛想笑いで軽く受け流して、指を右に振ろうとしました。そう、彼の奇妙な自信通りに天国へと導こうとしたのです。 しかし、それは結論から言うと叶いませんでした。これには勿論理由があります。 閻魔王は指がつりでもしたのでしょうか。いいえ、さすがにそこまで運動不足ではありませんよ。では、実はこの青年は思いも寄らない大罪を抱えていたのでしょうか。それも、答えはいいえです。彼は稀に見るまっすぐな男でした。では、一体何が起こったのでしょう。それはとても意外なことでした。 閻魔王の指が青年にぱくりと食われたのです。 今でこそ人間に牙はありませんが、その名残である犬歯、という尖った歯はまだあります。それが深々と閻魔王の指に突き刺さりました。 「痛い!!」 王はたまらず叫ぼうとしましたが、そうでした、唇は今、開かないのです。これでは扉の前で待機している部下も呼べません。青年の舌が噛みすぎたことを詫びるかのように小刻みに舌を動かしました。閻魔王がくすぐったくなって、肩を揺らすと今度はねっとりと卑しい動きをしました。神聖な裁きの間に水音が響きます。音が響く度に、閻魔王はくぐもった声をあげました。ああ、こんな無体な真似をするコはもしかして、もしかして。 「何だ、珍しく殊勝に声抑えてるかと思ったらもしかしてしゃべれないんですか」 辛うじて王が肯定の意を見せると青年は一人頷いて、トドメを刺そうとする獣のように青年は閻魔王の乾き切った唇に噛みつきました。閻魔王は確信します。ああ、そういえばこんな声だった。こんな顔だった。こんなまっすぐな瞳だった。そうしてこんな風にちょっぴし強引だった。 乾き切った唇は、青年によってやがて艶やかに潤み、すもも色に輝きました。閻魔王は、百万年ぶりに彼の名前を呼びました。
 
「おかえり、鬼男君」

今昔閻魔王物語

 
(110814)

突然空が白けて、机も扉も死者の列も全て姿を消した。残ったのは閻魔大王と優秀な秘書一人といつもの椅子。奇妙な既視感を感じながら閻魔は彼に尋ねた。

「はたして、今度こそ私は許されたのでしょうか」

まるで、神に許しを請うような「神」のその問いに鬼男はただ静かに笑った。今は自分こそが彼の地獄を終えさせることができるただ一人の存在なのである。閻魔にとって鬼男もまた「神」なのであった。

「…さて、どうでしょうかね」

すっとぼけてみせたが、鬼男が知らない筈もなかった。鬼男しか知っているものはいないのだ。この男がどれほど長い間責務を立派に果たしてきたかを一番近くで見てきたのは鬼男しかいない。死を知ってしまった罪を償うため彼は死者を裁いた。気が狂うほどに長い時間、裁き続けてた。自らの子供を一人裁く度に 裁く罪がまた一つ生じる。鬼男は自然と、煮えた銅を口から直腸まで喰わされた哀れな姿を思い出した。嗚咽と悲鳴。諦めと絶望。焼ける音と焦げる臭い。ぐちゅぐちゅと熟れた皮膚と今にもはじけそうな水疱。償いをいつまでも償う、なかなか終わらないこの罪。それを男は文句も言わず、ただ黙々とこなしてきた。自ら悪を背負うこともあった。そういう日彼は散歩と称して地獄に降り立ち 恨みや憎しみをその細身に受けた。

「ああ、段々思い出してきた。ねえ、鬼男君。本来打たれるはずのピリオドは今までに何回あったんだい?」
「わかりません、でも恐らく数えるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいです」
「道理で世界も終わり損ねて腐っていくわけだ!」

閻魔は背もたれに首を預けて呆れたようにまっさらな空間を仰ぎ見る。

「罪を貴方は償いきれていない。まだ、仕事を続けてもらいます」

仰いだまま答えない閻魔を見て絶望しましたか、と鬼男尋ねた。

「…いいや、ちょっぴり途方に暮れてるだけ。本当に次こそ気が狂いそうだよ」
「狂いませんよ、大王の神経図太いから。知ってますか、昔からイカの神経は太いから科学者の実験によく使われるんです」
「さも当然って顔して、イカ扱いしないでよ」
「……科学もここまで発展する筈ではありませんでした。もっと早く世界も終わらせるつもりでした」

閻魔はただ疲れたように微笑むだけだった。しょうがないさ、と。

「そんなコト言っちゃっても、君はまだ俺を許す気ないんだろ?」
「…貴方はいつも諦めるばかりで、僕を責めたり 理由を聞いたりしないのですね」
「聞かれたがってる奴に聞いてやることほどうんざりすることはないもの」

閻魔はくつくつと笑って肘掛けのなだらかな曲線を黒い爪でなぞった。

「…罰が続くにあたって、本来終わるはずだったここでの記憶をまた俺は忘れてしまうわけだけど 君は、言わなくていいのかな?」
「何の話ですか」
「今ならば俺は君を受け入れるかもよ。馬鹿な子ほど可愛いって、さ」

鬼男は意識的に、閻魔を見まいとただただ白いばかりの床に目を落とす。罪悪感のやり過ごすのはもはや慣れたものだ。

「…この審理の結果に他意はありません」
「嘘吐き。舌抜いちゃうよ?…もしかしたら、案外俺はとっくの昔に君を許してるのかも」
「…あなたこそ、舌を抜かれちまえばいい」
「自分の舌を抜くってのはなかなかぞっとしない話だね」

閻魔は口角をつり上げたままと手を振った。辺りがざわめいて、ちかちか光る。終わる為の時間が、終わろうとしているのだ。 「バイバイ。臆病者」 捨てた台詞を拾い上げることすら、僕はきっとできない。

神はかくかたりき

(100109)

※閻魔の罪の終わり=世界の終わりという前提で、閻魔を許す最後の審判担当は実は鬼男君、という妄想。審判だからと媚び売られても困るから普段閻魔は鬼男がソレだと忘れている。恋かもしれないし、信仰からかもしれないけれど 終末に臆病な鬼男のせいでうっかり終わりそびれる閻魔と世界

肉を焼き、皮膚をただれさせる刑も今日ばかりはない。よかったですね、そう言うと大王は見透かしたように肩を揺らした。

「もの足りなさそうだね?」
いえ、と上擦る僕の声。あなたが苦しまないでいるならばそれは至上の喜びですよ。大王は長椅子に横たわって、値踏みするような目で僕を見た。左右にそびえ立っているサーラメーヤはといえば僕なんぞに興味はないようで、ひたすらに大王を見つめている。ただの図体がでかい犬畜生のくせに気色悪い。忠誠心だけだとは到底言い切れぬ情欲を見つけ出した僕はどうにも吐き気を覚えてしまう。深読みしすぎではと責められたら、いやなに浅瀬で見つけたと言い返そう。百人に聞いたら百人にわかるだろう。恋してる人間の気味悪さを漂わせていた。漂白されたかのような白い毛色がまた不自然で不快感をあおる。雪だってもうちっと汚れていよう。

「鬼男君、おいで」

不意に白い腕に招かれる。少々不安を感じながらも大王の両手の中に体を差し出せば、背中に腕がささやかに回された。ゆるやかな力を以て絡みつく指に、胸がどうにも熱くなる。と、同時に両脇から不機嫌そうな呻き声。退出を命じられたらしい。犬相手に気分を良くした僕は思い切り彼を抱き返した。

「あらあら、どうしたの?かわいいなあ。今日は存分に可愛がってあげられるからね、たーんとお甘え」
「僕こそ、今日くらいは本当に限界超えるくらいに一日中可愛がってさしあげましょうか」
「前言撤回、全然可愛くない!君そう言って昨晩も俺の体を好き勝手使ったじゃない」

せっかくの休日を誰のせいで長椅子なんかで過ごしてると思ってるの。セーラー服新調しにいこうと思っていたのに。などと不満を唱えられ、なんとなくお預けにされた状態になってしまった。計算なのか、なんなのか。行き場の失った唇を肩に置いて、ふうっと息をはけば生温かいとげらげら笑った。やんわりと何度も頭を撫でられて、いい気持ちで瞼を閉じる。しばらくしてはたと、気付いた。これではまるで犬ではないか。でもあいつらとは違う、そうひとりごちると、どうせならと言わんばかりに首筋に食らいついてやった。尾があったら存分に振ってやるのだが、生憎ないので相変わらず自分はむすっとした表情である。我ながらかわいげがないのは百も承知だ。

「ッた」

普段は、いくら治癒力が高いといっても罰でできた傷があちらこちらに白い皮膚の上にうすく浮かび上がっている。今日はそれがないので、甘噛みの痕はいつもより心なしかはっきりとしていた。

「…今日くらいは君に不平等を与えよう。俺のことを君だけのものだと思って好きに扱うといい」

滅茶苦茶に犯しちゃって、と仮にも神様がそんな陳腐な誘い文句を平気な顔で囁くのだからつくづく世も末だ。いや、まさしくここは世界の末なのだが。

「…だから君にそういう趣味があるなら、非番だけど付き合ってもいいよ?火責め水責め鞭ゴーモン、全部が全部、俺にとっては慣れたモンなんだから」
「…別にそこまでアブノーマルではないと自負していたのですが」
「そ?残念。君は才能がありそうなのに。する方もられる方も」
「怒りますよ」
「こわいこわい。じゃあ何でか聞いても?」

さっき君は嘘を吐いたよね。何故、とどきりとしたが見抜くことは彼の専売特許なのであった。秘書の偽善くらい見抜けないでどうする。しかたないなと僕は腹をくくって、正直に話すことに決めた。だが最初に、まるで言い訳をするかのように「だって」と口について出たものだから情けない。大王の部屋に初めて忍びこんだときのことを思い出した。あの時はまだ子供で、ぼんやりと霧がかかった線路の上にいるようなものだった。まるで未来なんて考えなくて、いつまでも一緒にいれるのだとばかり思っていた。だが、大人になってこの人に近づけば近づくほど別れもまた近づくのを知るようになると、僕はひどく臆病になった。

「大王が罰を受けるのは昨日の人達を裁いた分でしょう」
「そうなるね」

「…大王が刑を受けるのを見る度に、少なくとも明日まではまだアナタは許されていないんだなとついほっとしてしまうんですよ」

「君は若いのにひねくれたものの考え方をするなァ!」

大王は腹を抱えながら、いっそう僕の頭を優しく撫でてくれた。こんなに優しくされているときですら、僕はこのひとがいなくならないことを願ってしまう。このひとの幸せよりも。

R18

閻魔大王と言えば細い体に似合わず、冥界で五本の指に入るほどの酒豪である。鬼ごろしという酒があるほどだから鬼が元々酒に強いことは読者諸君も承知のことであろうと思う。鬼男はその鬼の中でもなかなかに強い方ではあるのに、それでもてんで歯が立たないというのだからよっぽどだ。  とはいえそんな閻魔も以前に一度だけ酔っぱらったことがある。しかし、鬼男が前後不覚になるほどへべれけに酔っていて、直腸から酒を流し込むというそれなんていうエロゲプレイを繰り広げた時であったので まるで覚えてはいなかった。  そう、知らなかった。  普段白磁の器のような頬にこんな風に赤みが差すことも、暑そうに髪をかきあげた為に乱れた御髪も、とろんと溶けてこぼれそうな赤い瞳も。 「だ、大王…?」  男に向かって名前を呼べば、つんとした酒臭さが鼻腔を刺激した。目を覚ましたら恋人兼上司がに跨って、知らぬ間に性行為を交わしていたのだから鬼男も戸惑うことしかできない。気付かない自分もたいがいにアレだがそれにしてもこれはないだろう。こんな突然かつ無理矢理な夜這いは初めてであった。いつものようにセーラー服を着てにやにや笑っているわけでもなく、思い詰めたような表情をしているのも彼にしては珍しい。お馴染みである筈のナカがきゅうっとしまって、閻魔の唇が雪解け水が溶けるかのように少しずつ開いていく。「おにおくん」ようやく、唇が大きく動いた。「やらないか」
「馬鹿だろお前?!」

思わず目の前の男を爪で貫くと、血を滴らせながら閻魔は舌打ちをする。

「ぼーりょくばっか……これだから鬼って嫌いなんだよ。でも君もおれのこと嫌いなんだからおあいこだ」
「はあ?」
「おっぱいないし、こどもうむどころか死ねもしない、おっさんだもんねえ!でもそんなおっさんのお尻につっこんで、きもちよくなってんの忘れんな、んう、んんっ、あはァ」

鬼男の胸倉を掴むため前屈みになった拍子にいいとこを掠めたらしい。そのまま上半身を鬼男に重ねて、文句も半ばであえぎ始めた。強く締め付けられて鬼男まで小さく喘ぐ。だがなんとか、辛うじて喉から、嫌いなんかじゃありませんと恋人としてまともな台詞を絞り出せた自分を誉めてやりたい。

「じゃあ、セックスしようよ」

言い方変えただけだろうとツッコミをいれたかったが、今すぐしなければまるで世界が終わるかのような声であった。真剣さに圧されて鬼男も思わず真面目に考えてしまう。いやしかし駄目だ。明日のスケジュールが脳内で再生される。

「駄目ですよ。明日朝から会議あるじゃないですか。大王酔っておかしくなってるんですよ」
「はは いっつもそうやって真面目ぶるけどさあ、一回皮をはげばおれよりいやらしい淫乱のくせに。いつもぐっちゃぐちゃにおれのなかかき混ぜてさあ、えっちな顔して、せーし「もういいから黙れお前は!何がしたいんだてめえは」
「セック「やっぱりいい!黙れ」

胸板に手をついて上半身を起こすと閻魔は静かに笑いを浮かべた。冥界の覇者、絶対的捕食者としての顔。

「おまえは…爪の一本、毛一筋だってわたしのものなんだから」

彼がそんな風に素直に所有欲をみせるのは初めてだった。幼子を慰めるように鬼男の髪を何度も撫でる。普段甘えてるふりをしながら、狡猾に予防線をこれでもかと張りまくる男にしては珍しい。

「だから、頂戴」
ゆるゆると腰をあげると埋まっていた立ち上がったそれが徐々に姿を表す。俯いた拍子に汗の粒が一筋髪から流れ落ちた。ぱん、重力に従って手の力をゆるめれば、いきなり深いところがえぐられた。

「…っく、あ…」

鬼男の腹筋の上に手を乗せて緩慢に腰を動かす。同時に中に埋まっているものの出し入れを激しくはじめればもう、男は声にならない息を吐き出すことしか出来なくなっていった。

「っは、あ…大王」
「におくん、あ、あ…もっと…もっと……」

ぐちゃぐちゃという下品な水音と、辛そうに吐かれる溜め息が鬼男の最後の理性を瓦解させた。

「く、ッ…ん!んあ!そ、な急に……」

彼の腰を掴み思い切り上に突く。閻魔の足が鬼男を離すまいと腰にまわされた。求められている。もっと、もっとと閻魔の腕が鬼男に絡みついていよいよ距離が殆ど零になる。この殆どというのがなんとも曲者で、どんなに皮膚をくっつけあったとしても本当に零になって一にはなれない。またがる男はそれを知りつつ言った。 まだ足りない。  鬼男の肩にかぶりついた。肉を食いちぎる勢いであったので鬼男は色気もなにもないただの悲鳴をあげた。痛みと酒臭さに顔をしかめつつも、いつも自分がしていることだから文句を言うわけにもいかない。

「きみが欲しいだけなの」

己のものでない血を口からだらだらと垂らす横に透明なものも流れている。誰よりも強いはずの男は泣いていた。  距離は零にはなりえないし、二は一にはなりえない。閻魔大王と鬼一匹。足しても掛けても、彼らは何も変われないのだ。
(100523)